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山中廃徊記

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2017年08月

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「真」彦根道を歩き、榑ヶ畑線・三谷前に出てきたときのこと。
三谷の看板の後、ずいぶん急斜面ですがこの上にも集落の跡がないかなと探してみることにしました。
で後の斜面をよじ登りますが…
やはり何もありません。北側の谷の下りて林道に復帰しようとしていると
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矢印の場所に放置されたウインチのような機械。
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南星工作所、昭和43年製造と読めます。林業用の集材機のメーカーで、これはエンジンウインチという物らしい。
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この会社は現在でも、㈱南星ウインテックと㈱南星機械として盛業中です。
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そのエンジンウインチを、コンバイン?に載せてここまで運んだようですが、この場所は林道からかなり谷を分け入ったところです。もちろん道などありません。いったいどうやって運んだんでしょう?昔は道があったのかもしれませんが…



さて、お次は柾板峠への新たな道であります。
榑ヶ畑から落合に向かう彦根道は、現在の支線の終点手前から柾板峠に至るのが正規のルートです。
今回「シブラ・板ノ原〜」の看板手前から山に入る道を発見したので歩いてみました。柾板峠につながっていれば、谷底を通る本来の道が増水等で通れなくなった時の代替道として機能していたのかも…と妄想が膨らみます。
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結果、柾板峠につながってはいましたが、この道が旧い物なのか最近できたものなのかがよくわかりません。
ふりかえって支線側を眺めた図。
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途中はこんな感じ。
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旧い感じもしますが…
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よくわからないうちに柾板峠到着。
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ということで、榑ヶ畑を徹底的に散策する シリーズはこれにて一応の終了ですが、今後も継続して調べてゆきたいと思っております。

なお今回、参考にさせていただいた滋賀民俗学会1968年発行の
『湖東・湖西の山村生活-離村部落の民俗報告-』ですが、湖西編として今津の天増川流域の廃村群を詳しく調査されています。当時の貴重な写真等も収められておりこの地の林道をくまなく走破されているこの方には大変興味がお有りではないかと思います。

しかし、この滋賀民俗学会を実質一人で運営されてきた方が今年初めに亡くなられ存続の岐路に立たされているという記事がありました。
うまく乗り越えていただけるようお祈りしております。


以上、完結ⓒクイック先生

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前回も登場したこの地図ですが
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「-民俗報告」の見取図ではこのようになります。
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図中の番号は以下の写真の位置を表します。


この模様の水瓶、榑ヶ畑のトレンドだったのでしょうか。別の場所でも見かけています。
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朽ち果てた鉈が同じく朽ち果てた木にささったまま・・・
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このような広い平地が続いております。
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ポンプ小屋の跡?と思しき所に出てきました。
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見取図によれば、この辺りにお寺があったことになっています。
この立派な石垣がそうかもしれません。
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そしてその後ろ、見取図ではここから「山道」と記載されている場所。ここにも立派な石垣がありその上はかなり広い平坦地。二つ目のお寺の跡と思われます。
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少し下って、「元の学校」のあたりに転がっていたのは・・・
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懐かしや〜スプライトの1Lビン。しかも初期の寸胴タイプです。おそらく1976年頃のもの。

こちら、昭和23年に醒ヶ井に移転されたお宅の跡にあるお墓。これも日付が「-民俗報告」の記述と一致しません。
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他でも見かけたデザインの水瓶がここにもありました。
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「かなや」から汗ふき峠にいたる途中から分岐する道。昔の集落道の一つと思われます。
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このあと、汗ふき峠をへて「かなや」前にもどり見取図の青線のように散策しました。

正式に廃村となったのは昭和32(1957)年ですが、その20年以上前から離村化が進んでいたとのこと。すでに80年以上が経過し残っているものも、瓦の破片のみという状態です。

今回、散策してみて分かったのは登山道沿いの狭い範囲が榑ヶ畑のすべてではないということでした。特に東側斜面は4段ほどの雛壇状平坦地が広がり、多くの住宅があったことがうかがえます。
明治11(1878)年には、51戸・259人もの人が住んでいた、というか住むことができる広さがあったということです。

そんなわけで、なかなか散策しつくせません。今後も継続して調べ倒したいと思っております。

おしまい





と、思ったけど次回「おまけ編・歩いていたらこんなん見つけました」の巻でおしまいといたしたいと思います。
しつこく、つづく

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墓地を確認できたことに満足して先に進みます。
墓地の横の峠。
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ここまでは、迷うことのない広い道が残っていました。
先へ進みましょう。
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こう来たところでもう一度倒木をCutした部分を通過。
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切り口が比較的新しそうです。
それにしても、道はとても良い状態です。
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この辺りに来ると、右手下の方に林道が見えてきます。
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そして林道に出ました。
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榑ヶ畑線と支線の分岐点、三谷の標識より20mほど榑ヶ畑寄りの地点です。

さらにここから、当時はなかった林道に重なる細い山道を通り、柾板峠、落合方面に通じていたのが「真」彦根道だったのでしょう。


これにて、墓地と彦根道の探索はいったん終了とし榑ヶ畑に戻ります。
もちろん彦根道経由で。

さて、今度は集落の東側の山中(下の図、赤い部分)を散策してみたいと思います。
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「離村部落の民俗報告」によると『昭和15,6年ころになると本格的な移住』になりだし『榑ヶ畑の家を解体し』醒ケ井の移住先に運んだということです。
現存する家屋は2軒。22番の、県内某山岳部の山小屋として使われているお宅と、23番の「かなや」のみです。あと、完全に倒壊したお宅(16番?)が1軒。

そのほかは土台の石垣を残すのみで、建材は残されていないので「--民俗報告」の記述は正しいものと思います。

ということで、これから散策しようとしている東側斜面には何も残っていない可能性大です。

ではまずスタート地点の八坂神社前に行ってみましょう。
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こちら、今では林道に面し妙に明るい雰囲気ですが、4,5年前までは鬱蒼とした植林地でした。
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赤丸のあたりに井戸があり、細い山道が暗い森の中に延びていました。上の見取図の
旧道と記されている道で、昼坂(ビンサカ)峠を経て上丹生に通じていました。
そして鳥居の前はちょっとした広場になっており、かつて学校(分教場)があったそうです。

こんな所に林道ができるとは思っていなかったので、当時の写真を残していなかったのは悔やまれるところです。

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さて、上の地図の緑線のように歩いてみました。行ったり来たりで線がぐちゃぐちゃですが…

残念ながら大した発見はございませんが、次回に続く

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ここが墓地であったという、決定的な証拠となるようなものはないかと、丘の周りを調べてみました。
この辺り、丘を頂点とした4~5段のひな壇状になっております。
イメージ 5
こんな感じ
各段の側面は、石垣ががっちり組んであります。
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何らかの施設の跡地であることは間違いありません。

うろうろしているとこんなものがありました。何かの台座のような感じ。この上にお墓がのっていた?
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この横には・・・わかりにくいですが、真ん中が窪んでいて左右に石組みが施されています(右端の背の高いのは自然石です。石組みではありません)。
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ちょうどBBQの網を載せる竈のような感じ・・・
炭焼き窯の跡のようにも見えますが、墓地で炭焼く奴はおらんやろ、と思うのですよ。

この広いひな壇を上から下まで、30分ほど歩き回りました。しかし最初のお墓以外墓地であったという痕跡はありません。

諦めてただ一基のお墓の前に戻って来ました。
お墓の横から彦根道方向を眺めていたとき・・・

!!!
ああああった〜かも
下の写真、赤丸部分にやたら丸い苔の塊が見えます。この辺りにある石灰岩ならもっと角ばっているはず。あきらかに人工物に苔が生えている感じです。
最初にここを通った時は、まったく気が付きませんでした。
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近寄って見てみると
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間違いなくお地蔵さまやら五輪塔、宝篋印塔です。ミニサイズですが。
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これを探していたのです。「離村部落の民俗報告」に載っていた『榑ヶ畑・墓地』というキャプションの付いたこの写真のものと同一です。
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[滋賀民俗学会 湖東・湖西の山村生活 離村部落の民俗報告より転載]
これだけたくさんあれば、たとえ墓石を移転先に持って行ったとしても、いくつかは残っているはずだ、と踏んでいたのです。

あるいは太平寺のように一か所にまとめてお祀りしてあるはずだと。

さらにこの古い写真の右上に写りこんでいる、大変特徴的な大きな洞(うろ)を持つ樹に注目していただきたい。

なんとこの樹が枯れて腐りかけながらも残っていたのです。その50年後の姿です。
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場所は、先ほどのお墓のすぐ横。そしてその前には石仏たち。
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樹と石仏は今も50年前と変わらずに同じ場所にあったのです。古い写真の左隅に写るお墓は、存在していません。現在ただ一基のお墓が当時もあったかどうかは写ってないのでわかりません。

ともかくこれで、この場所が榑ヶ畑の墓地であったことがはっきりしたわけです。



次回、「真」彦根道探しはまだ続きます。 

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一人で祝!! 7777人

最近めでたくキリ番達成された方々。
セロ尾さん;50,000人
ケッパコあーやんさん;88,888人
クイックさん;200,000人 等々

これら諸先輩方に負けてはならじと、頑張って(嘘)ようやくオール7が揃いましたのでご報告させてください。
みなさま方とは桁が一つも二つも少ないのは、目を瞑ってくださいね(笑)
イメージ 1

7777人達成!苦節14箇月目のことでございます。

このペースで行くと・・・
セロ尾さんの50,000人に追いつくのは、7年と6箇月後。認知機能に問題が生じている頃ですな。
ケッパコさんの88,888人に追いつくのは、13年と4箇月後。手が震えてキーボードを叩けなくなっているでしょう。
クイックさんの200,000人に至っては30年後。・・・たぶん生きてないですわ。

なので当面10,000人を目指すのが妥当な線であろうかと思っております。

これすべて、みなさまのおかげ。ありがとうございます。
今後ともよろしくお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

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